7冊目のカズオ・イシグロ作品。そろそろ「イシグロファン」と自称してもいいと思っている。
有名な作品から読んできたので7作目まで来るとちょっとマイナー。どんな内容か、あまり知らずに読み始める。推理小説っぽい作品らしく、作者自身も「アガサ・クリスティの模倣」だと語っているらしい。
1930年
1930年7月24日、ロンドンから始まった。「第一次世界大戦」が終わって 12年後の社会。いったんは平和な感じなのだろうか。いずれ1939年の第二次世界大戦へと繋がっていくような空気も表現されるだろう。
日本は、都会で地下鉄が通ったり、家にも電気・ガス・水道が引かれはじめた。昭和のはじめ頃。少しずつ便利になってきたくらいか。
log・考察
探偵ものらしい
探偵になりたかった子供が、なれずに大人になる人生のお話だろうと思ってたけど、推理小説なんだって。子供は成長して探偵になる。作者自身も「アガサ・クリスティの模倣」だと語っているらしい。
知る前と後で、この作品への印象や興味の質が ガラリと変わった。自分の「作品を見る眼」の変化に少し驚く。
あのまま何も知らずに、読み進めていた方が楽しかったのだろうか。調べなきゃよかったのか?いや。知った後の方が確かに読みやすい。
大切なこと
過去を学び、目立たず、騒がず、しゃしゃり出ず、自分を深く見つめて、自分の道だけを見て、いつの日か有益になるはずの知識を静かに吸収していく。大切な姿勢だ。主人公に見習わなければならない。
しかし、
ある一人の女性をしつこく しつこく語ったあげく、「彼女の存在すら忘れていたかもしれなかった」なんて わざわざ言うところ。大いに気にしまくっとる。セリフ通りに受け取ってはいけない。
これは、主人公クリストファー・バンクスが いくら賢いと言っても、まだ未熟なの若者であると解釈するべきだろう。絶対🧐この先でキーとなる設定。作者がそう仕組んだと考えるべきだ。
アイヴァンホーとは
作中、主人公バンクスが本屋で立ち読みする本。Amazonで探すと上のふたつが見つかった。知らなかったが、世界的にけっこう有名な小説みたいだ。
イギリスでは有名な伝統的物語で、ロビンフッドも登場する大活劇。イギリス人と仲良くなりたい時は、読んでおくと良さそうだ。
子供時代
2章目に入り「現在」は 1931年。1年進んだロンドンだが、上海での昔話、子供の頃の話がしばらく続く。
「租界」って言葉が何度も出てきたが「疎開」とは違う。恥ずかしながら知らなかったので調べた。(19―20世紀に列強の侵略下にあった中国における治外法権地域の一つ)
日本で言えば、長崎の「出島」みたいな感じなんだろう。バンクスとアキラは、上海で出島みたいなところに住んでたんだと理解。「現在」のバンクスを 25~30歳くらいとみれば、子供時代は 1908年前後か。
世界をつなぎとめているのは、ぼくたち子供なんだ
❝全世界をしっかりとつなぎとめているのは、ぼくたち子供なんだ❞
アキラのセリフ。よくある考えのようにも聞こえるが、作者は安易な意味で言っているのではないような気がする。
子供の存在が「この世の存在自体をつないでいる極めて重要な根幹」といったような概念。他の小説で味わったことがある概念だ。アーサー・C・クラーク「地球幼年期の終わり」っていう SF小説だった。ショッキングなラストを思い出す。
覚えているとか、いないとか
作中で「はっきり覚えている」とか、「記憶が曖昧だ」とか、自分の記憶の評価をしながら物語る場面が多い。なにか意図的に多用している節がある。たぶん読み手に委ねているんだろう。勝手に解釈してもいいってことか。
話全体を通じて、人間の記憶の曖昧さを問いたいのか。人は長い時間をかけて、自分の記憶を歪めてしまう。覚えていると言っていることでさえ、時がたてば全く違う記憶へ置き換わってしまう事もある。そんなどんでん返しの布石かもしれない。
ホントに探偵もの?
1937年。いよいよ上海に入る。入ってからというもの、時間の前後が激しくて正直ついていけてない。
しかし、この話はホントに「推理小説」なのだろうか。作者自身が「アガサ・クリスティの模倣」だと語っていたと聞き、勝手に「探偵ものの推理小説」と思い込んだだけなのか。
今のところ、少し屈折した恋愛をからめたヒューマンドラマにしか見えない。まだ半分読んだところでしかない。ここから転じるのかも。
転じるどころか違和感倍増
上海に来てからのバンクスの行動や心の動きに、ずっと違和感を感じている。
そんなにすぐ、何十年も離れていた家に住もうなんて決心できるもの?それも幸せな他人を押しのけてまで。そんなにすぐ、重大な決心ができるものだろうか。
まだ未熟で若い主人公がトチ狂っていると描いているのなら合点がいく。今まで読んできたカズオ・イシグロとは違うテーマなのかもしれない。
Ⅵ章は怒涛
バンクスが兵隊さんに当たり散らす下りは、作者の意図を図りかねてうろたえた。若気の至りとか、誰にでもバカなところはあると言いたいのか。
物語はだんだん深刻になりながら、今までの退屈だった流れがウソのように激しく残酷になっていく。すごい転換。戦災者が死ぬ描写なんてもう映画で映像を見せられるより痛ましい。こうやって死んでいく人を見たことはないけど何かわかる。
昔のイギリスは奴隷貿易とかアヘン戦争とか、悪いことばかりしていた。アキラや母や悲しい運命、蒋介石のことを絡めながら責めているようにも見えた。
物語の中で語られる、蒋介石が阿片を売って軍資金にしていたというのは事実らしい。
それもこれも元はと言えばみんなイギリス。もうちょっと国家として反省し、すえ長く控えめにして欲しい。
Ⅶ章は虚しさと悲しみ
1958年。いきなり21年とんだ。日本では 昭和33年。富士重工業が「スバル360」を発売した年だ。
前章までは第二次世界大戦(1939~1945)の2年前、今章は終結した13年後となる。よくよく思い起こせば、本音を絶対に言わない人ばかりが登場人物だったと思える。
一人語りだから、主人公のバンクスは自分の思考のなかでも本音を言わない。最後のサラの手紙への想いもホンネを隠していると思え、虚しさしか感じなかった。変なお話だった。
強烈だったのは、年老いたダイアナに会ったとき。猛烈な悲しさが凄みをおびていた。忘れられなくなるタイプの場面だ。
「クララとお日さま」も「日の名残り」も「わたしを離さないで」も そうだったが、カズオ・イシグロの作品は心に強烈なイメージを残していく。