たまたま本屋へ行ったら、たまたまこの本の発売日だった。発売されることすら知らなかったのに。
「わたしを離さないで」の頃からカズオ・イシグロさんには なぜか縁を感じているが、今回は運命的なものさえ感じた。
読めば、あいかわらず静かで品の良い雰囲気。言葉が柔らかいから気付きにくいが、よくよく考えてみると内容は案外きついイシグロ作品。「どんより明るい」感じが魅力だ。
今作はラストでかなりの衝撃を受けた。子供の頃、表層意識へ顕在化していなかった裏の罪悪感を掘り起こされる感覚だった。
※注)ネタバレあり。
log・考察
第一部「AIの献身」
疲れた母親の様子を表現するのに「風に吹かれながら高い所にとまっている鳥の雰囲気」という描写があった。見たことはないけど感じとれる。耐え忍んでいる心。
第一部まで読んだところでわかってくる。病気の女の子と疲れた母親を、優しい「AIロボット クララ」が支えるストーリー。
女の子はクララの献身にどう相対するのか。母親はどう報いるのか。
第二部「AIの心」
ジョジーの病気と、ロボットクララの出自か製法あたりに何か大きな黒いものがありそう。「わたしを離さないで」に似た匂いがする。
ジョジーの態度の変化。マイノリティをあざける様子。向上処置? 重要そうなキーワードが出てきたがまだ全貌は見えない。徐々に、そして静かに明らかになっていくのだろう。
子供も大人も、集団になると意地悪になる。
病気の女の子と優しいAIロボットのストーリーだと思ってた。が、そんな優しいだけの話ではないようだ。
AIロボットの目でみた人間と、そこから生じる感情。「AIの心」を通して人の心の動きを表現する試みか。
すごい違和感。はじめての感情を味わっている。
(考察)向上処置とは
これまた、「向上処置とは」的な説明は本文中にはなかった。
ヒントになる言葉から、以下の解釈をした。
向上処置は人の知能指数をあげるが、健康を害するリスクがあり、まれに命を落とすこともある。上流階級の子どもが間に施す「人間の能力」を上げるための処置であり、治療とは呼ばれているもののジョジーの姉は恐らくこれで命を落とした。
(考察)「AF」とは人工の友だち
作中に何度も出てくる「AF」とは、「Artificial Friend」のこと?見落としているかもしれないけど、恐らく作中には一度も説明がなかったと思う。オートマチックフレンド(automatic)かと思ってたけど違うようだ。
Artificial=人工的な
人工的な友だち。なるほど。
第三部「人間以上」
クララ目線で、バグって視界が崩れている描写がたびたび出てくる。人間自信にもたまにある不思議な感情の揺らぎ(崩壊?)を思い起こさせる。
何かの隠喩か。何なのかがわからない。わかっているのかもしれない。でも言葉にはできない。
本当に一生懸命ジョジーを助けようとしてる。本当の友だち。意図的に、人間の友達以上に感じるように描かれていると思う。
クララの空間認識がバグっているのか、超常現象が起こっているのか、よく分からなくなる。読んだ人がこう感じてしまうのも狙いの内なんだろう。
第四部「ヤマ場が近い」
ジョジーの母親と父親の様子がおかしい。これから何か恐ろしいことが起こるんじゃないのか。人格のダウンロード?よからぬことが始まろうとしている。
そう感じさせる。ヒヤヒヤする。
クララが自分の身を犠牲にしてジョジーを救おうとしている。AFが主人のために身を呈す。日本のアニメやマンガを見慣れている日本人としては珍しくはない。
このシーンには感動ではなく、何か暗いものを隠喩させている気がする。
第五~六部「子供のおもちゃの心と身体」
子供は成長し、お気に入りだった おもちゃでも遊ばなくなる。やがて おもちゃは忘れられ部屋の隅でホコリをかぶる。
クララが自ら屋根裏部屋へ身を置いたこのセクションは胸が苦しい。もうひとつ、クララが冷蔵庫の横だったり、廊下へただただ「立つ」という仕草。身体の置き方。この「ただ立つ」シーンでも…
登場人物の言動には、読む者にある一定の感情を思い起こさせるための隠喩を施してあるように感じる。
たぶん罪悪感。
ラストの方では、「AFは子供のおもちゃでしかなかったのだ」と強烈に感じさせる。おもちゃへ人間と同じ「こころ」と「からだ」、そして「終わり」の瞬間を与えて、どんな感情を読む人へ与えようとしたのか。自分も漏れなくその感情を抱いたのだろう。
意識をもったお友達ロボット「AF」の生き様。言葉にできない気持ち。同情とか憐憫とかそんな軽いものではないような…
この物語に出てくるような意志を持ったお友達ロボット「AF」は、今後世に出てくる可能性は十分にあるんだろう。作者が、最後の方から突然におわせ始めた結果は想像できなかった。想像させないように書いていたに違いない。
まさか、生きたまま捨てられるとは…
むかし「姥捨山」(楢山節考)という映画があったが、あれは捨てに行く息子に罪悪感があった。このお話は、捨てる側のジョジーに罪悪感がない。悲しんでいるが、自分が寂しいだけ。捨てる相手が おもちゃ、つまり「もの」としか思っていないから。
途中でうっすら感じた罪悪感はこれだったか。とにかくこの最後のシーンは当分こころに残ってしまう。感情に与えられたインパクトが強すぎる。
心苦しい。
所感
だいたい3か月かかって、ようやく読み終えた。あいかわらずの遅読だ。そのかわり、より深く読み込むことを心掛けている。ホントはあと一回、二回と、繰り返し読んだ方がいいんだろうが時間がなくてなかなかできん。
繰り返しになるが、イシグロさんの作品は静かで品の良い雰囲気だと思う。言葉が柔らかいんだ。だから気付きにくいけど、よくよく考えてみると内容は案外きつい。ある意味、超がつくほど残酷だ。
「人間の友だち」以上に友だちだった「もの」を意識のあるまま捨ててしまう。
「AIを発展させるとこうなるんだよ」って予言にも感じた。深く考えさせさられただけど、言葉にするのはいつも難しい。
いつか、ハッと閃く事もあるだろう。いい体験をした。
映画化のお話
映画化が、ほぼ確定しているようだ。ハリーポッターを製作したプロデューサーが動いてて、草稿もできているとか。
監督は、タイカ・ワイティティ監督(ニュージーランド)で交渉中。よく知らない人だけど結構有名な監督さんらしい。「ジョジョ・ラビット」というのが一番有名みたいだ。監督兼、ヒットラー役で、元々は喜劇役者とある。
情報元によれば、ワイティティ監督は2024年にスターウォーズを撮影する予定があり、決まれば その次にクララとお日さまの製作になるという。(文章が少し紛らわしくて読み取りにくい)
情報元サイト;映画.comより
「タイカ・ワイティティが監督か カズオ・イシグロの小説「クララとお日さま」映画化」